2010年1月23日土曜日

御神輿3機



 ある日曜日のお昼前、雨が上がるのを待って、ゆっくり家を出た。家の前の女子校の文化祭と近所の八幡様のお祭りとで、路上には人が多かった。ゆっくりと走り始め、チョッと言ったところで子供の担ぐ御神輿を見たが、その屋根のテッペンにいる鳳凰に元気がなかった。単なる真鍮製の鶏みたいで、動きがイマイチなのだ。担いでいる子供たちも、そろいの浴衣やハッピなどは着ていないし、遠巻きに見ている大人たちもちらほらで、普段着姿でお祭りの格好ではない。まるで盛り上がりに欠け、さして楽しいそうには見えなかった。その後、事務所に着くまでの約30分の間に、なんと同じような沈んだ御神輿を3機も見た。

 自転車通勤は、街と街の境界を越えて走る。電車を利用しての移動だと、点としての駅を渡る移動ではあるが、自転車だと点が点在する面上を移動していることとなり、街と街が繋がっていることが実感できる。だから、9月の下旬に集中する秋のお祭りに連続して出くわしたりする。子供たちが担ぐ御神輿は美しいとは思うが、私が子どもの頃はみんなおそろいの浴衣を着て担いでいた。毎年この時期に新しいお祭りの浴衣ができて、去年までのパジャマ代わりに着せられていた寝間着が新しくなる程度の浴衣ではあった。最近はみな普段着で、そろいの浴衣を着ているのは、商店街のオジサンばかり。昼間から酒食らって赤ら顔なんていうのもないし、見て、何だか、面白くない。神田や浅草の荒っぽいお祭りの興奮なんて全くないモン。まー規模が違うと言えば違うんだけど、私が生まれ育った代々木上原のお祭りの盛り上がりとは随分かけ離れてる感じがした。

 まー半世紀近くも昔のことで、テレビがようやく各家庭に入り込んできた頃ではある。コンピュータ・ゲームなど想像すらできない時代だし、子供たちの遊びもベーゴマや剣玉、ボード・ゲームや三角野球、程度だったもんなー。毎月のお小遣いとは別にお小遣いもらって、おそろいの浴衣着て、八幡様に綿飴や金魚すくい目当てに行くのは、結構楽しみだったような気がする。たまに出かける都心のデパートの屋上も面白かったけど。そんな時代に友達同士みんなで御神輿担ぐのは面白かった。大きい声張り上げて、勝手知ったる町内を回って、郵便局のオヤジとか畳屋のオヤジなんかがいつになく頑張っちゃってるし、一回りするとおむすびと三ツ矢サイダーくれたのよ。

 今の時代は、毎日がお正月みたいなテレビやってるし、TVゲームやサッカーにしか興味がないのか、塾の事しか頭にないのか、自分と自分が住む街との繋がりがないのね。私の通勤ルートは世田谷区と渋谷区がメインで一部目黒区を通過するけど、いずれの区も住宅が多い所で、戸建てとマンションが混在している山の手と言われるところだ。昔と違って向こう三軒両隣の、街の最小単位のお付き合いはなくなっちゃってる住宅街だ。街に対する愛着やふるさと意識も希薄なんだと思う。夫婦共働きの核家族で、近隣に住む人とのお付き合いはなく、自分の住む街のコミュニティーを意識しての生活ではないのだ。街の商店街での買い物ではなく、大型スーパーでの買い物で、店先での顔見知りはいなくなり、潤いがなくなってきている。こんな状況でのお祭りでは、盛り上がれつったって盛り上がらないでしょうね。子供たちも無理して担いでるみたいだし、街中を一回りして三ツ矢サイダーでは喜ばないわけで、何か違うご褒美でもあるのかしら。

 自転車の車上から見る御神輿は、なんとなく悲しい。御神輿を英語に訳すとPortable Shurine(ポータブル・シュライン)と言う。言い得て妙である。誰が英訳したのか知らないが絶妙ではある。御神輿とは、持ち運びできる神社との解釈で、御神輿の輿とは乗り物の意味だ。神を乗せて運ぶ社屋であり、建築である。日本建築の神髄である屋根の建築だ。御神輿はいかに屋根を美しく見せるかがそのテーマで造られているように思う。屋根だけの抽象化された建築であって、木組みを駆使して社(やしろ)空間を小さく造っている。屋根は方形(ほうぎょう)と言われる形で、とんがり屋根の中心に鳳凰を乗せている。

 私の自転車通勤ルートには駅前商店街はないが、たまに色々なところの商店街を通ることはある。どこも何となく元気がない。大きなスーパーで、店の人との会話もなく、マニアル通りの妙なお辞儀をされての買い物に慣れてしまった。昔は良かった、などとは決して思わないが、店先での呼び声は面白かったし、店側とお客との何気ない一言二言は商品に関する知識として参考にもなった。見慣れたおトクイさんとはそれなりの会話があったし、時に家族の心配や気遣いの言葉もあったのだ。自転車通勤していれば、昔のコミュニティーが戻ってくるとは思わないが、建築家としては、街やマンションなどの人付き合いの度合いは気になる。集合住宅の設計はディベロッパーなどの思惑が原因して、姉歯のような奴にしかその設計のチャンスはないのだが、まともな建築家であれば、今のままでいいとは、誰も思っていない。不特定多数の見ず知らずの人が、一つ屋根の下で暮らす集合住宅の設計は、建築家の力量が問われる難しい設計と言える。もっとまともに設計すれば、住人同士のコミュニティーや街のコミュニティーもいい形で再生できるはずだ。

 などと、ここで愚痴ったところで何も生まれないが、街のお祭りで、もっと子供たちが生き生きして御神輿を担ぎ、上の鳳凰に息吹を与えられるような地域コミュニティーはあって欲しいと思う。御神輿のトンガリ屋根にのる鳳凰が担ぎ手たちのリズムに合わせて美しく舞う姿が見たい。

2010年1月16日土曜日

ロード・バイクの値段


 坂道の登り、乳母車のような手押し車を押すお婆さんがいた。大業そうに両手を突っ張って小さな歩を進めている。足下の黒いゴム製の小さな靴が目に入った。貧相な出で立ちに貧素な靴なのだが、私には見たことのないような古い靴で、履き心地はけっして良さそうには思えなかった。たとえ履き心地は悪くても、お婆さんに取っては慣れ親しんだ靴で、十分心地よく履けるのかも知れないとも思った。

 靴に求められる機能はそれなりに沢山ある。雨や雪が降るときには長靴がいいし、通勤の時にはそれなりにスーツに合う、落ち着いた履き心地のいい物が欲しい。結婚式やお葬式の時にはそれなりの礼服用の靴を履くのが礼儀だろう。実用的な機能と情報的機能の二つの機能を満たす履き心地のいいモノが欲しいとなると、複数必要だし、それぞれに金額もかさむ。お洒落心とはお金がかかるモノではある。

 普段履きというか、家の近所へのお買い物や休日の昼間、ラーメンなんかを食べに行く時には何も気にせず、どんな靴でもさして気にはならない。一方、オリンピックの短距離やマラソンのランナーの靴は、スポンサーの靴屋さんが総力を挙げて制作するもの凄いモノらしい。ミリ単位やグラム単位で調整された、その選手だけのための特注品で、トラックや路面の状況でソールの材質や厚みなども変わり、履いていると言う感触すらないような靴で、ただただ記録を伸ばすためのモノだと言う。そんな桁違いに凄い靴でも、私の安物の靴でも、靴は靴であり、歩くだけのためなら何ら支障はない、とも言える。

 自転車だって同じ事だ。オリンピックに出場するような競技用の自転車を市販すれば「一億近い金額になっちゃうかも」とのコメントを聞いたことがある。駅前で雨ざらしで放置されているママチャリは一万円前後だ。ツールド・フランスなんかで走る自転車にも値段は付かないと思う。市販されているそのクラスのロード・レーサーだと軽く百万は超えているので、本体としては、2,3百万くらいか1千万を超えるのか、良く判らない。わたしの知識外の所であり、自転車を維持管理するのに必要な経費や人件費などを含めれば、きっと値段は付けられないようなものが走っているのだと思う。自転車も、靴と同じようにピンキリだということ。タダに近い金額から信じられないような金額までと言うことだ。住宅や別荘の建設コストも同じようなことが言えないことはない。特に別荘などの建設コストについては住宅と違って、幅が広く設計前の予算立ての時にはよく相談を持ちかけられるのであるが、自分が使う建物としての値頃はだいたいの所ではあるが、あるにはある。

 で、私の感じでは通勤に使う自転車の金額の目安は、自分が通勤に履いている靴の10足分くらいの金額がいいんじゃないかと勝手に考えている。今、おいくら万円の靴はいてます? それの10足分くらいの自転車を買うのが、身の丈に合っていると思う。毎朝、仕事場に跨ってゆく自転車で、ケチるとろくな事はないし、常識的な金額は?と問われればの話ではある。え、10万円の靴はいてるんですか。じゃー100万円の自転車がアナタに相応しい自転車ですね。いくらでもありますよ、100万を超えるような自転車。

 凄い高そうな自転車だけど、幾らしたの? ね、幾らなのよ、この自転車、と実にまー品のないことを尋ねてくる人がいる。幾らだっていいじゃないの。こういう人は、何でもかんでもそのモノの値段を聞いてくる。全ての物を金額という尺度でしか測れないかわいそうな人で、モノの本質が判らない貧素な人だ。

 とある陶芸家の窯元を訪ねたことがあった。その方の焼く陶器や陶板は何故か私の気持ちを強烈に引いていた。見て直ぐに、いいと思えるモノばかりで、一つのある白い皿は、アイスクリームから肉じゃがまで、何を盛りつけてもその味を数倍良くしてくれるモノだと思った。 

 その作家に、土の値段を聞いた人がいた。一袋何キロ入って幾らなのかを問うていた。何でそんなこと聞くんだろうと疑問ではあったのだが、帰路の車中で、作品の原価を計算し高いか安いかの判断をしていたことを知った。私は、呆れかえって言葉も出なかったことを思い出す。この人は、上場会社の社長クラスの人であり、陶芸家はイタリアの著名なコンテストで銀獅子賞を受けた方である。

 全く彩度のない壺があった。見ていると全ての色がそこにあるようにも見え、不思議なオーラを放っていた。主張のある黒に近いグレーで、理数的なストレートな六角柱、茶筒のように上三分の一は蓋になっている。土から練り上げた素材感を残すテクスチャーが陶器であることを示していた。六角柱の側面は、磨き上げられた鏡面の仕上げと、焼いたままの粗雑な肌が交互に3面ずつある。手作りの為なのか、焼いたときの温度誤差なのか、若干の歪みが人の手による作品であることを伝えていた。蓋の上部は凸面レンズのような曲面を持ち、鏡面に仕上げられ、磨き上げられた側面と共に天井の蛍光灯を冷たく反射していた。荒く仕上げられている面は光を吸収し、焼き上がったときの偶然を期待して作られた作品ではなく、当初より計算された形がそこにあり、他にはない斬新を感じた。陶芸の作品とは古さや伝統ばかりを強調するモノだと思っていた誤解を払拭させられ、未来を表現した作品にも思え、私は、意外な驚きを感じたのだ。凄いと思った。金額は幾らでもいいので、欲しいとさえ思ったのだ。陶器からここまでの感動を得たことはなかった。

 そんな芸術とも言える作品の、原価を計算し高いか安いかの判断を下そうとしていた人は、100万を超える自転車に魅力を感じることはない。たとえ10万以上の靴を履いていても、自転車に100万は出さないだろう。足腰の弱ったお婆さんがゆっくり手押し車を押すときに、お婆さんにとっては慣れ親しんだゴムの古い靴を見て、新しい靴を売りつけようとする淋しい考えしか持ち得ない人だとも思う。オリンピック選手の靴につぎ込まれたノウハウをきちんと評価できる人ではない。100万を超える自転車、いいじゃない、どんな乗り心地なのか、一度は乗ってみたいわさ。



2010年1月7日木曜日

右側通行は違反です


 最近は、右側通行の自転車と出くわしても注意することは、殆どなくなった。じっと睨み付けるだけにしている。しかし、たまに白い自転車のお巡りさんが、右側の歩道を走ってくるのに出くわすと、思いっきり注意する。たいていのお巡りさんは「すいませんでした」と低姿勢だが、時に私の「お巡りさん!」の呼びかけを無視してそのまま走り去る警官もいる。ある時は「そこの信号が故障してると言うので、急いでました」との賜った。お巡りさんは、急いでいるときには道路交通法を無視してもいいのかと思わず怒鳴ってしまった。右側の歩道を白い自転車が走ってくるのを見ると、私は、キレる。

 ある時、私を追い抜いていったお巡りさんに、思いっきり怒鳴った。それは、渋谷の繁華街を抜けて事務所の近くの住宅街でのことだ。緩い坂道の左側をのんびりのぼっていたとき、一人の警官が右側を走りながら、私を追い抜いて行ったのだ。左側を走る私を追い抜くには道路中心近くを走れば済むことであり、右側を走行する必要はないほどの十分な巾のある道路で、車もそこそこに通る道ではある。時に向い側から自転車さえ下りてくるのだ。追い越したその警官は左側に進路を変更することなく右側を走ったままでいた。私は、このときも、この野郎と瞬間的にキレた。軽車両に乗る道路交通法違反を注意する立場の警察官が、警察車輌である白い自転車に制服姿で乗って、堂々と違反行為を行っているのは、許せない。昔から、権力の持つ暴力や不正には断固とした態度で臨んでいる全共闘世代としては、見過ごすわけにはいかないのだ。

 「こらー、何を右側走ってんの!」とかました。奴は自転車を止めようとはしなかった。そのまま2台で併走するような形になり。「アナタは注意する立場だろ。ちゃんと左側走れ」と続けたが、相手は無言のままスピードを落としただけで、その内右に曲がっていった。私はそのまま走り、事務所のそばまで来たら。なんと白い自転車に乗った警察官がもう1人、自転車を降りてなにやらビルの上の方を見ている。なんだろう、と思いながら通過しようとゆっくり行くと、一人の警官が急に右側の路地から出てきて、ぶつかりそうではなかったが妙な止まり方をした。さっき怒鳴った奴のようで私から視線をそらした。多分、事務所のそばで何かあったんだな、と感じた。現場に急行する必要があったんでしょう。だからといって違反走行してもイイ、などと言うことは、絶対にない。私が自分の自転車を担いで事務所のある2階の部屋に行くべく、外部階段を上っていると、感じ悪くも、二人して下から見てた。ウチのビルでの事件・事故ではないらしいけど、近所で何かあったことは間違いなさそうではあった。

 私は、右折する信号で前の車にくっついてそのまま右折するという道交法違反をしたことがある。曲がった先にいたお巡りさんに思いっきり大きな声で怒鳴られ、止められた。今の警官はここまで失礼な言い方するんだの印象で、こっぴどく注意を受けた。いいですよ、私が悪いんだから。注意は甘んじて受け、今後そのような走りはしないと約束し、放免してもらった。右側の歩道を歩く速さ以上の速度で自転車に乗るお巡りさん、冗談、じゃ、ねーよ。事故ったときにはどういう説明をしてくれるんだよ。アンタら、きちんと自転車の乗り方について講習受けて、駐在所勤務してんじゃ、ねーのかよ、と、大きな声で言いたい。

 春と秋だったと思うが、全国交通安全週間と呼ばれる時期がある。車に良く乗っていた時期には警官ばかりが目に付き、実に走りにくかった時期ではあった。チョッとした交差点には警官や白バイが張り付き、いつも以上に気を使いちっとも安全に走れなかったような記憶がある。未だに死亡事故ゼロを目指して全国交通安全週間が行われているが、自転車での右側通行を注意する警察官は、いない。なんで!? 大きな交差点で右側の横断歩道を渡るために自転車を止めている人に対して、注意しないのは、おかしくないの? 大きな交差点には歩道の横に自転車の通行を促す白線が自転車の絵と共にある。あれは一体何なんだろう。誰か説明してちょうだい。

 「坊や、自転車は左側通行。そっち走ってると危ないよ」。「はい」の返事も元気よく、左右に注意を払って左側、私の後ろに付いたちょっと太っちょの坊やがいた。小学生高学年か、女の子にはもてそうもない風貌で、子供の頃の私に似ていた。右側通行を注意して始めて気持ちのいい思いをした時のことだ。

 若いママチャリ白バイに乗ってるお巡りさん方に一言いいたい。上司から何も言われてないんだと思うけど、軽車両としての自転車は、左側通行が大前提なのよ。最近、渋谷近辺でお巡りさんの不法走行をちょくちょく目にする。ママチャリ自転車は、軽車両としてのカテゴリーから外れてはいないんだからね。時速10キロ未満で歩行者としての意識しか持っていないママチャリは平気で歩道を走ったり、右側走ったりしてるけどさ、きちんと道交法を守って走ってる自転車にとっては、危険きわまりないのが右側通行のチャリンコだからね。

 事故の殆どが右側通行が原因してるらしいし、堂々と交差点の右側を走って来られた日には、間違いなく左側通行の人と正面衝突するでしょ。車からだって右側を曲がってくる自転車は見えないんだから。アンタらお巡りさんが注意してくれないと、正面衝突はなくなんない。ましてや、自分たちが右側走って、どうすんのよ。現場に急行する時には特に注意してもらわないと、我々みたいに道交法やモラルを常に気にしながら走ってるロード・バイカーの立つ瀬がないじゃん。いい加減にしてよ、ったく。

  

2010年1月6日水曜日

ロード・バイクの値段

 坂道の登り、乳母車のような手押し車を押すお婆さんがいた。大業そうに両手を突っ張って小さな歩を進めている。足下の黒いゴム製の小さな靴が目に入った。貧相な出で立ちに貧素な靴なのだが、私には見たことのないような古い靴で、履き心地はけっして良さそうには思えなかった。たとえ履き心地は悪くても、お婆さんに取っては慣れ親しんだ靴で、十分心地よく履けるのかも知れないとも思った。

 靴に求められる機能はそれなりに沢山ある。雨や雪が降るときには長靴がいいし、通勤の時にはそれなりにスーツに合う、落ち着いた履き心地のいい物が欲しい。結婚式やお葬式の時にはそれなりの礼服用の靴を履くのが礼儀だろう。実用的な機能と情報的機能の二つの機能を満たす履き心地のいいモノが欲しいとなると、複数必要だし、それぞれに金額もかさむ。お洒落心とはお金がかかるモノではある。

 普段履きというか、家の近所へのお買い物や休日の昼間、ラーメンなんかを食べに行く時には何も気にせず、どんな靴でもさして気にはならない。一方、オリンピックの短距離やマラソンのランナーの靴は、スポンサーの靴屋さんが総力を挙げて制作するもの凄いモノらしい。ミリ単位やグラム単位で調整された、その選手だけのための特注品で、トラックや路面の状況でソールの材質や厚みなども変わり、履いていると言う感触すらないような靴で、ただただ記録を伸ばすためのモノだと言う。そんな桁違いに凄い靴でも、私の安物の靴でも、靴は靴であり、歩くだけのためなら何ら支障はない、とも言える。

 自転車だって同じ事だ。オリンピックに出場するような競技用の自転車を市販すれば「一億近い金額になっちゃうかも」とのコメントを聞いたことがある。駅前で雨ざらしで放置されているママチャリは一万円前後だ。ツールド・フランスなんかで走る自転車にも値段は付かないと思う。市販されているそのクラスのロード・レーサーだと軽く百万は超えているので、本体としては、2,3百万くらいか1千万を超えるのか、良く判らない。わたしの知識外の所であり、自転車を維持管理するのに必要な経費や人件費などを含めれば、きっと値段は付けられないようなものが走っているのだと思う。自転車も、靴と同じようにピンキリだということ。タダに近い金額から信じられないような金額までと言うことだ。住宅や別荘の建設コストも同じようなことが言えないことはない。特に別荘などの建設コストについては住宅と違って、幅が広く設計前の予算立ての時にはよく相談を持ちかけられるのであるが、自分が使う建物としての値頃はだいたいの所ではあるが、あるにはある。

 で、私の感じでは通勤に使う自転車の金額の目安は、自分が通勤に履いている靴の10足分くらいの金額がいいんじゃないかと勝手に考えている。今、おいくら万円の靴はいてます? それの10足分くらいの自転車を買うのが、身の丈に合っていると思う。毎朝、仕事場に跨ってゆく自転車で、ケチるとろくな事はないし、常識的な金額は?と問われればの話ではある。え、10万円の靴はいてるんですか。じゃー100万円の自転車がアナタに相応しい自転車ですね。いくらでもありますよ、100万を超えるような自転車。

 凄い高そうな自転車だけど、幾らしたの? ね、幾らなのよ、この自転車、と実にまー品のないことを尋ねてくる人がいる。幾らだっていいじゃないの。こういう人は、何でもかんでもそのモノの値段を聞いてくる。全ての物を金額という尺度でしか測れないかわいそうな人で、モノの本質が判らない貧素な人だ。

 とある陶芸家の窯元を訪ねたことがあった。その方の焼く陶器や陶板は何故か私の気持ちを強烈に引いていた。見て直ぐに、いいと思えるモノばかりで、一つのある白い皿は、アイスクリームから肉じゃがまで、何を盛りつけてもその味を数倍良くしてくれるモノだと思った。  

 その作家に、土の値段を聞いた人がいた。一袋何キロ入って幾らなのかを問うていた。何でそんなこと聞くんだろうと疑問ではあったのだが、帰路の車中で、作品の原価を計算し高いか安いかの判断をしていたことを知った。私は、呆れかえって言葉も出なかったことを思い出す。この人は、上場会社の社長クラスの人であり、陶芸家はイタリアの著名なコンテストで銀獅子賞を受けた方である。

 全く彩度のない壺があった。見ていると全ての色がそこにあるようにも見え、不思議なオーラを放っていた。主張のある黒に近いグレーで、理数的なストレートな六角柱、茶筒のように上三分の一は蓋になっている。土から練り上げた素材感を残すテクスチャーが陶器であることを示していた。六角柱の側面は、磨き上げられた鏡面の仕上げと、焼いたままの粗雑な肌が交互に3面ずつある。手作りの為なのか、焼いたときの温度誤差なのか、若干の歪みが人の手による作品であることを伝えていた。蓋の上部は凸面レンズのような曲面を持ち、鏡面に仕上げられ、磨き上げられた側面と共に天井の蛍光灯を冷たく反射していた。荒く仕上げられている面は光を吸収し、焼き上がったときの偶然を期待して作られた作品ではなく、当初より計算された形がそこにあり、他にはない斬新を感じた。陶芸の作品とは古さや伝統ばかりを強調するモノだと思っていた誤解を払拭させられ、未来を表現した作品にも思え、私は、意外な驚きを感じたのだ。凄いと思った。金額は幾らでもいいので、欲しいとさえ思ったのだ。陶器からここまでの感動を得たことはなかった。

 そんな芸術とも言える作品の、原価を計算し高いか安いかの判断を下そうとしていた人は、100万を超える自転車に魅力を感じることはない。たとえ10万以上の靴を履いていても、自転車に100万は出さないだろう。足腰の弱ったお婆さんがゆっくり手押し車を押すときに、お婆さんにとっては慣れ親しんだゴムの古い靴を見て、新しい靴を売りつけようとする淋しい考えしか持ち得ない人だとも思う。オリンピック選手の靴につぎ込まれたノウハウをきちんと評価できる人ではない。100万を超える自転車、いいじゃない、どんな乗り心地なのか、一度は乗ってみたいわさ。



2010年1月2日土曜日

一人でツールド・フランス

 やったー。2338秒。久々、堂々の、23台だ。自己対記録。

 お盆休み中の8/13(水)の朝8時半、いつもより早めに自宅を出て、いつものように走り出した。環七を超え淡島通りを走り出すと、車が極端に少ないことに気付いた。そうだ、お盆休みなんだ、との思いが浮かび、これは高タイムが出せるかも、との思いで、モチベーションが一気に上がった。記録更新の世界新とばかりに飛ばしてしまったのだ。一人のツールド・フランスで堂々の一着を獲得した気分。これで、22台の新記録も夢じゃない。

 ユニクロの22,900円の半ズボンに、色あせしたGAPのガラシャツ。頭には黒のサイクリング・キャップの上に、使い込んだ貫禄付きつつある赤いカスクのヘルメット。うまい具合にハゲを隠してくれるので、傍目には59才のオッさんには見えない、だろう。バス停に停車するために速度を落としたバスを右側から追い越してゆく。後ろの車に右手でその旨を合図しようとも思ったが、後ろに車はいない。自転車を軽く右に左に傾けながら、滑るようにバスを追い越す。追い越せば、前方に車はなく、さーどうぞ状態。チェーン・リングは50歯の大きい方に既にセット済み。右手で後輪側のギアを一つ、二つと上げてゆく。

 前方には下り坂が待っている。ギアがトップに入って、軽々とスピードが上がってゆく。多分、既に時速50キロは超えている。坂の下の信号機を見れば、青だ。交差点の真ん中に右折車が留まって、私の通り過ぎるのを待っている。そのままのスピードで信号を通過し、緩い右カーブ。左側に交番があって信号がある。ここも青だ、超えると登り坂に入る。登り切るちょっと手前にもう一つ信号が待っている。ギアを一つ一つ落としながら登坂してゆく。見れば信号が赤から青に変わった。正にラッキー、である。

 少々スピードは落ちたとは言え、坂を登り切ると平坦な道が続く。おー調子いいじゃん。なんだオイ、又バスか、2台もいるネー。バス停を出たばかりで重そうに加速中だ。こんなことしちゃいけないのは判るが、対向車線は空っぽだし、ノロノロ走るバス二台の後ろにはつきたくないので、少々踏み込みの回転を上げて追い越しに掛かる。難なく二台を追い越してしまった。今朝の淡島通りは正に私の自転車通勤のオリンピック道路。すね毛の汚い私の足も、妙に元気に日焼けしてます。

 スピードが乗ってくる。不穏な笛の音が耳元をかすめ始める。もっと踏み込めば、もっと出る。時速60キロは、多分、超えている。ハンドルから感じる安定感は加速する毎に増し、スピードへの誘惑を増幅させる。チェーン・リングはアウター側の高速用、後輪のスプロケット・カセットは小さなトップに入っている。ケイデンス(ペダリングの回転数)をもっと上げることは可能だ。誘惑はどんどん大きくなる。未知の速度をくぐり抜けると、間違いなく新たな世界が広がる。どんな世界なのか。ケイデンスを上げに掛かる。上体をより一層屈め弾丸が坂道を落ちてゆく。こんなこと、やってはいけません。中年のオッさんにはオッさんなりの走りがあるんですから。