坂道の登り、乳母車のような手押し車を押すお婆さんがいた。大業そうに両手を突っ張って小さな歩を進めている。足下の黒いゴム製の小さな靴が目に入った。貧相な出で立ちに貧素な靴なのだが、私には見たことのないような古い靴で、履き心地はけっして良さそうには思えなかった。たとえ履き心地は悪くても、お婆さんに取っては慣れ親しんだ靴で、十分心地よく履けるのかも知れないとも思った。
靴に求められる機能はそれなりに沢山ある。雨や雪が降るときには長靴がいいし、通勤の時にはそれなりにスーツに合う、落ち着いた履き心地のいい物が欲しい。結婚式やお葬式の時にはそれなりの礼服用の靴を履くのが礼儀だろう。実用的な機能と情報的機能の二つの機能を満たす履き心地のいいモノが欲しいとなると、複数必要だし、それぞれに金額もかさむ。お洒落心とはお金がかかるモノではある。
普段履きというか、家の近所へのお買い物や休日の昼間、ラーメンなんかを食べに行く時には何も気にせず、どんな靴でもさして気にはならない。一方、オリンピックの短距離やマラソンのランナーの靴は、スポンサーの靴屋さんが総力を挙げて制作するもの凄いモノらしい。ミリ単位やグラム単位で調整された、その選手だけのための特注品で、トラックや路面の状況でソールの材質や厚みなども変わり、履いていると言う感触すらないような靴で、ただただ記録を伸ばすためのモノだと言う。そんな桁違いに凄い靴でも、私の安物の靴でも、靴は靴であり、歩くだけのためなら何ら支障はない、とも言える。
自転車だって同じ事だ。オリンピックに出場するような競技用の自転車を市販すれば「一億近い金額になっちゃうかも」とのコメントを聞いたことがある。駅前で雨ざらしで放置されているママチャリは一万円前後だ。ツールド・フランスなんかで走る自転車にも値段は付かないと思う。市販されているそのクラスのロード・レーサーだと軽く百万は超えているので、本体としては、2,3百万くらいか1千万を超えるのか、良く判らない。わたしの知識外の所であり、自転車を維持管理するのに必要な経費や人件費などを含めれば、きっと値段は付けられないようなものが走っているのだと思う。自転車も、靴と同じようにピンキリだということ。タダに近い金額から信じられないような金額までと言うことだ。住宅や別荘の建設コストも同じようなことが言えないことはない。特に別荘などの建設コストについては住宅と違って、幅が広く設計前の予算立ての時にはよく相談を持ちかけられるのであるが、自分が使う建物としての値頃はだいたいの所ではあるが、あるにはある。
で、私の感じでは通勤に使う自転車の金額の目安は、自分が通勤に履いている靴の10足分くらいの金額がいいんじゃないかと勝手に考えている。今、おいくら万円の靴はいてます? それの10足分くらいの自転車を買うのが、身の丈に合っていると思う。毎朝、仕事場に跨ってゆく自転車で、ケチるとろくな事はないし、常識的な金額は?と問われればの話ではある。え、10万円の靴はいてるんですか。じゃー100万円の自転車がアナタに相応しい自転車ですね。いくらでもありますよ、100万を超えるような自転車。
凄い高そうな自転車だけど、幾らしたの? ね、幾らなのよ、この自転車、と実にまー品のないことを尋ねてくる人がいる。幾らだっていいじゃないの。こういう人は、何でもかんでもそのモノの値段を聞いてくる。全ての物を金額という尺度でしか測れないかわいそうな人で、モノの本質が判らない貧素な人だ。
とある陶芸家の窯元を訪ねたことがあった。その方の焼く陶器や陶板は何故か私の気持ちを強烈に引いていた。見て直ぐに、いいと思えるモノばかりで、一つのある白い皿は、アイスクリームから肉じゃがまで、何を盛りつけてもその味を数倍良くしてくれるモノだと思った。
その作家に、土の値段を聞いた人がいた。一袋何キロ入って幾らなのかを問うていた。何でそんなこと聞くんだろうと疑問ではあったのだが、帰路の車中で、作品の原価を計算し高いか安いかの判断をしていたことを知った。私は、呆れかえって言葉も出なかったことを思い出す。この人は、上場会社の社長クラスの人であり、陶芸家はイタリアの著名なコンテストで銀獅子賞を受けた方である。
全く彩度のない壺があった。見ていると全ての色がそこにあるようにも見え、不思議なオーラを放っていた。主張のある黒に近いグレーで、理数的なストレートな六角柱、茶筒のように上三分の一は蓋になっている。土から練り上げた素材感を残すテクスチャーが陶器であることを示していた。六角柱の側面は、磨き上げられた鏡面の仕上げと、焼いたままの粗雑な肌が交互に3面ずつある。手作りの為なのか、焼いたときの温度誤差なのか、若干の歪みが人の手による作品であることを伝えていた。蓋の上部は凸面レンズのような曲面を持ち、鏡面に仕上げられ、磨き上げられた側面と共に天井の蛍光灯を冷たく反射していた。荒く仕上げられている面は光を吸収し、焼き上がったときの偶然を期待して作られた作品ではなく、当初より計算された形がそこにあり、他にはない斬新を感じた。陶芸の作品とは古さや伝統ばかりを強調するモノだと思っていた誤解を払拭させられ、未来を表現した作品にも思え、私は、意外な驚きを感じたのだ。凄いと思った。金額は幾らでもいいので、欲しいとさえ思ったのだ。陶器からここまでの感動を得たことはなかった。
そんな芸術とも言える作品の、原価を計算し高いか安いかの判断を下そうとしていた人は、100万を超える自転車に魅力を感じることはない。たとえ10万以上の靴を履いていても、自転車に100万は出さないだろう。足腰の弱ったお婆さんがゆっくり手押し車を押すときに、お婆さんにとっては慣れ親しんだゴムの古い靴を見て、新しい靴を売りつけようとする淋しい考えしか持ち得ない人だとも思う。オリンピック選手の靴につぎ込まれたノウハウをきちんと評価できる人ではない。100万を超える自転車、いいじゃない、どんな乗り心地なのか、一度は乗ってみたいわさ。
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